宮山 正光 展

「  不可視の断片 : invisible segument 」


 



会期=2018年9月17日[月] - 9月22日[土]
会場=表参道画廊
時間=12:00-19:00(最終日17:00まで)
   


      





   私たちが帰属している社会は、美学的価値の有無に問わず市場原理に左右され経済力学によって形成される価値観が優先される。現実社会に共有共存する物事に 至っても、経済力学が優先するが故に真の価値の質量を損ねている。物事を十二分に咀嚼する間も無く、時 と共に朽ちて逝く物事への思い・記憶を留め置く交歓の場、時間の概念が通用しない可感化する空間を求め て時の流れの中へと無意識の領域への巡礼の旅。
   時の流れとは、連続性であるとするならば、存在価値を有し無くなってしまた物事をも含めて流れの中に存在する。
朽ち逝く物事への哀愁……。 
   感情の高揚と共に過去の物事が具現化されて目の前に現れる様な白昼夢を魅せてくれる。何故ならば身を持って体験した物事であるからこそ、精神組織網内にて 身体が覚えている。
朽ちて逝く物事が蓄積され遠い記憶の闇の中に追い遣られて逝くのだが、葬ることによってまた新たな物事 を取り込んで往く事が、禁断の無意識の領域を開放する瞬間に繋がる。
   巡礼の終着地点は、私たちの既存社会の中で体験に対する個々の心情を如何に認識するかと言う領域、神経組織の記憶の片隅に終着地を視る。
  薄れ去る認識を可視化・知覚化する事の再認識化をする事でneo-thought の思考が産まれ、物事への思い・記憶を再検証する上での手助けに成ると思われる。








 
不可視の断片: invisible segument


多様性と云う中で拡散した価値観

曖昧な余白の拡大をも引き起こし

余白の中に埋没する支柱

深霧内状態

求めている支柱の可視化

目視塔に





sculputer

title : Pylon
medium : aluminium and polyester resin
size : about 2,2000mm tall
year : 2016 made









sculpture
title :       mysterious ditch  「妖測」
medium : made of plaster and wax with clear resin legs
size :       about 130x2400x430 mm


painting
title :       animism
medium : acrylic paint on canvas
size :       about 1200 x 2400 x 40 mm




           




 


■宮山正光  masa miyayama

1958年 生まれ
1978年 渡米、academy of art college, college of art and craft 在籍。
1987年 帰国
1991年 再度渡米、kala institute (プリント工房)にてプリント技法を学ぶ。
1990〜95年 田中信太郎(現代美術家)のアシスタントをする。

個展、グループ展多数。




 





 
この不明なる世界に対して

                      平野明彦(いわき市美術館学芸課長)

視覚が対象との距離を必要とするように、作品を観るという身体性を伴う思索的な行為もまた心的な次元におけ る距離を必要とする。好悪の感情を含め、作品に対する認識の在り方は、おそらくこの距離化の感覚の所産に基 づいている。この距離化の感覚は個の身体と結びついている為に他者が共有することは不可能であり、さらにそ の感覚の揺らぎがそのまま作品と観る者との多義的な関係に繋がっていく。

ゆえに作品との出会いは、再生産されることなく常に一回性の出来事として立ち現れるのであり、作品を語るこ とは、個として体験する作品との出会いという出来事に基づかない限り説得力を持たない。それゆえ本稿では、 筆者と宮山の具体的な作品との間に生じた出会いから論を進めていきたい。

まず昨年、いわきの画廊における個展に出品された「skeptical reality」と名付けられた立体作品について語ってみよう。
この作品は、床面から遊離する形で水平に配された弧を描く鉄の線分の上に、細長いオベリスクのような木製の 形状物が垂直に屹立し、その傍らには、ミツロウで固められた鳥の巣が配置されている。弧を描く鉄の線分は一 種の台座とみなされ、放射線を描きながら空間を横切る気道のような者と考えてよいだろう。そして同一の軌道 上に二つの造形物を置くことを通して、両者がある関係性の元に配置されていることを示している。

均質にペイントされたpベリスクのような形状物は人工的な造形物を想起させ、傍らに配された鳥の巣は自然の 営為に夜産物を示唆しているとみてよい。けれども宮山は、この対極的な両者を二項対立的に定時しているわけ ではない。仮に両者の二項対立的な対峙を目論むとすれば、直接床面に配置するか、あるいは弧を描くことなく 直線としての線分上に両者を置くはずである。

穏やかな弧を描く鉄の軌道とは、作品の題名が仄めかしているように、展示空間に対する skeptical(懐疑論的)な思考を反映し、床面からの遊離と同時に展示空間に付随する様々な属性から の乖離を意図している者と考えられる。そして仮設の床面ともいうべき鉄の軌道上に配された造形物は、事物と しての意味性を保持しつつ、対峙という硬直した関係性から逃れ、例えれば五線譜のなかに配列された音符の如 く筆者の前に現れ出たのである。

それゆえ「skeptical reality」は、展示空間とコラボレートするインスタレーションとみなすべきではない。この立体作品は、展示空間への不信、即ち宮山の目の前に存在す る現実と名付けられた茫漠たる空間ー世界に対する不信、あるいは不明を前提として制作されたのであり、弧を 描く鉄の軌道とは、おsの茫然たる世界にわけいるために視覚化された理念としてのステージと解釈すべきだろ う。そのステージにおいて宮山は、音符、あるいは言葉を配列するように対極的な二つの造形物を構成し、その 形態と色彩、質感、そして意味性が織りなす存在としての音律を通して、この世界の実相、その断面をみつめよ うとしているのである。

詩人が言葉に宿る言霊を空中に詠ずるように、そして作曲家が己の思考と完成の奇跡を楽譜に書き連ねるよう に、宮山は、造形物の諸相を" visual language "としてとらえ、その関係性を通して世界 に対する新たなヴィジョンを見い出そうとしているといってもよい。

確かに世界は不明であり、そしてその世界を認知すべき精神は麻痺化しつつある。この精神の麻痺化を招いた元 凶のひとつが、情報テクノロジーの肥大化によるグローバリゼーションによって成し遂げられつつある情報の氾 濫とその全世界同時共有化であり、我々の生活における時間と空間の概念は、現実にグローバリゼーションのも たらす効率と進歩思想によって変容させられている。

このような状況は、特に電子ネットワークを通して暴力的といってもよいほどの浸透性を持って我々の日常を脅 かしているのだが、その最大の脅威は、ほとんど空気や水の如く意識されることなく肉体と精神に受容されつつ あるということだろう。

あらゆる情報を瞬時にそして簡単に入手スレヴァするほど、その情報の持つ意味は形骸化され、さらに知と肉体 と行為の関係性は阻害されていく。おしなべて世界は均質化されていくのである。

このような時代に対する芸術家の批判的精神によって見い出されるべき今日的命題とは何か。それは膠着した時 代を生み出す弛緩した精神をいかに揺り動かすべきか、ということだ。

宮山の作品は、芸術に対するアヴァンギャルドな革命性や社会に対する声高なメッセージの発信といった次元か らはるかに遠ざかった地点に立脚している。しかしそpの作品の根底には、今日、蔓延しつつある主体なき ファッションに追従する時代精神に対して否をつきつける意志が秘められていることを見逃してはならないだろ う。

本展における立体の新作は、「musik von r wagner」と名付けられている。まだ未見の作品ゆえに、批評めいたことは何も言えないことを承知で一言だけ述べておきたい。

作品の題名に冠せられているヒトラーの芸術的感性を揺り動かした偉大なる作曲家は、アーリア崇拝至上主義者 として反ユダヤ主義を唱え、かつ人類史上に残る壮大華麗な楽曲を生み出したアンボイバレンツな存在としてミ ユア山に意識されていることは間違いない。そして異なる方向異性に引き裂かれつつなんとか均衡を維持しよう とするこの左羽品は、まさに引き裂かれつつある私たちを、そしてこの世界の断面を記述しようとしているので は なかろうか。